自由民主党衆議院議員 茨城県第2区 ぬかが福志郎

ぬかが福志郎が自らの人生を綴った 風雲ヤセがまん記

風雲ヤセがまん記

衆議院議員初当選

県会議員二期目の選挙が終わった翌年のことだった。
私は、橋本登美三郎先生から話したいことがあるので時間をとっておけとの連絡をもらった。私はてっきり「額賀君が行方、鹿島の若い人たちをまとめろ」ぐらいのことを言われるのだろうと憶測していた。
広い応接間で、私は橋本先生と差し向かいで座った。
橋本先生は「前に慈母観音で刺された胸の傷の影響で、選挙のような激しい運動は無理だと医者に言われた。ついては、君も政治の道を踏み出したのだから(衆議院を目指す気持ちは)どうか」というのだ。
私は、潜在的にはかねてから中央政治を目指す気持ちが皆無ではなかっただけに、橋本先生の言葉は、胸にズシーンと響くものだった。
私はただ橋本先生に確かめておきたいことがあった。
それは「本来、橋本先生の後継者は、長年、第一秘書として政治の道の勉強をしてきた香取衛さんが引き継ぐのが世間からみてもスジというものであるから、どうお考えになっているか」ということである。この点について、橋本先生は「これは香取君にも話をし、了解済みのことだ」とはっきりいうのだった。
それにしても、私は、その場で返事をするのには、私にとってあまりにも大きな問題だったので、「先生、1週間、じっくりと考えさせてください」といって、別れた。
この問題は、橋本先生の重大な問題であるから、私は親、兄弟、女房にさえも誰にも相談できなかった。
考えてみれば、今度の衆議院の選挙は、夏の参議院選挙と同時に行われる可能性が極めて高いといわれているだけに、あと3、4か月の期間しかない。この短い期間で、県会議員二期目とはいえ、ほとんど無名に近い一青年が衆議院選挙を闘うということは、それがたとえ橋本先生の地盤を譲り受けたとしても相当無謀な行為と言わざるを得ない。
しかし、人の一生には、損をするとか得をするとか、当選するとか落選するとか、そんな利害得失の尺度だけでは、推し量れないものがある。それが人間らしい〝行きざま〟というものであろう。
私は、自民党の幹事長まで務めたことのある橋本先生から「どうだ」といわれ「いや、期間が短いから考えさせてください」とは、男として惨めでどうしてもいうことができなかった。
逆に、自分も一度は政治の道を志したのであるから、その政治の道にまっしぐらに突き進んでいく姿こそ、まさに自分の生きざまであり、その結果がどうであるかよりも、むしろ途中の経過に全力をあげていくことに価値を見出すべきだ、と考えた。
一方、私は与えられた1週間のうちに、東京で香取衛さんと差しで会った。
「実は、香取さん、先日、オヤジからこういわれた。これは香取さんも承知の上で、私のところへ言ってきた話ですか」
「額賀君、そうなんだ。オヤジは、身体が無理できないので、最初私に、どうだといってきたんだ。私はね、オヤジにこういったんだ。自分はもう50代になってしまった。単に代議士になるだけならそれでもかまわないが、政治家として力をつけて選挙区の皆さんや国民に恩返しをしていくためには、やはり、若いときに代議士にならないとだめだ。その意味では、地元で政治を志している額賀君あたりがよいのではないか、と私が言ったのだ」と言う。
私は香取さんの手を握りながら、男として、人間としてお互いに政治にかけるひたむきな情熱を確かめ合った。
私はこのとき、はっきりと橋本先生の意志を継いで中央政治を目指す決意を固めた。
その夜は、深夜まで香取さんと酒を酌み交わした。
選挙準備は、まず橋本先生の後援会である西湖会最高幹部会議を開いて、橋本先生の後継者としての額賀福志郎を認知してもらい、西湖会会員約10万人にあいさつ状を出すことから始まった。その後各町村ごとに「橋本登美三郎先生に感謝し、ぬかが福志郎を励ます集い」を催していった。
私は、橋本先生と行動を共にしていくに従い、橋本先生がいかに政治家として人間として奥行きの深い人であるかを知った。それはいかなる困難があろうとも決してたじろぐことのない気迫であったり、人からの相談をジックリ聞ける腹がまえであったり、また、事に臨んで極めて臨機応変に対応できる機転であったりした。
特に、選挙が告示になってからは、橋本先生は自らの身体の無理を押して、自分の選挙のように寒風にさらされながら街頭に立ってくれた。
しかし、選挙は厳しかった。ぬかが候補は、せいぜい今回は顔見せというのが通り相場であった。
私はただ、神風が吹いてくれるのを期待した。神風が起こる下地は十分にあると思っていたからだ。
58年12月18日――、運命のトビラが開かれた。 開票の状態は、かんばしくなかった。民放の放送で、私は、最初〝落選〟のレッテルをはられ、事務所がテンヤワンヤし、支持者が帰り始めた。わたしはついに〝敗戦〟の弁を語るはめになった。
私が〝敗戦〟の結果をようやくまとめあげたころ、今度は「中央選挙管理委員会の集計ミスで当選していたことがわかった」という知らせが届いた。とにかく、しばらくして私は当選お礼のあいさつをさせられていた。
それにしても、わずか半年という短期決戦で、橋本先生の後継者とはいえ、無名の一青年をかついで血みどろの戦いをしてくれた同志の皆様に、なんとお礼を申し上げてよいか、ことばが見つからない。
私は、政治家として力をつけ、いつの日か郷土のために、日本のために報いることが最大の恩返しであると、心に決め、今後も初心を忘れずに精進していきたいと覚悟を決めている。