自由民主党衆議院議員 茨城県第2区 ぬかが福志郎

ぬかが福志郎が自らの人生を綴った 風雲ヤセがまん記

風雲ヤセがまん記

茨城県議会議員時代

またたく間に4年が過ぎようとしていた。県会議員選挙がまた近づいてきたのである。私は、今度こそ青春をかけて戦ってみる決意で満ち満ちていた。利枝を亡くしたショックからも立ち直り、いやむしろ、利枝の分まで自分に与えられた生涯を存分に生き抜いてやろうという逆噴射の情熱に燃えていた。
だから私は昭和53年2月にサンケイ新聞社を退社し、郷里の麻生町に帰った。
私は郷里に帰るのに先立ち、地元選出の衆院議員、橋本登美三郎先生に立候補の決意を伝え、理解してもらった。
だが、実際に郷里に帰ってみると、風当たりは強かった。
小中学校の同級生からでさえ、当初は「県会議員は、いわば名門の育ちで、カネも名誉も、ある程度まで成し遂げた人がなるものだと聞いている。額賀みたいにカネもない、地位も名誉もない、そのうえ中学時代までしか郷里にいないで、いきなり選挙をやろうとしたってとても話にならない。常識ある人に相談したら気でも狂ったのかといわれるよ」とまで言われる始末だ。
だが、私は決してあきらめず、必ず時の風が吹いてくれると信じ、地道に歩きつづけた。
私は、行方郡内の多くの同志の応援で初陣を飾ることができた。また選挙の終わった翌年の夏、ぬかが福志郎後援会報「福志郎だより」を編集し、同志のかたがたにお礼を述べるとともに、「政治家の生きがい、それは身を粉にして皆様のために働き、喜んでいただくことだ」と決意を述べた。
県会議員時代、私は、茨城県の調和のとれた発展を期すべく、道路、交通など交通体系の整備、常磐、東関東両高速道路の建設促進、農業の振興、工業の誘致、霞ヶ浦の浄化と水の確保、科学万博誘致、それに、教育、福祉の問題など、あらゆる角度から勉強した。
皆様の期待に十分にはこたえられなかったにもかかわらず、行方郡内の皆様の温かい声援に対し、心から感謝の意をささげるばかりだ。