衆議院議員 茨城県第2区 ぬかが福志郎自由民主党

ぬかが福志郎が自らの人生を綴った 風雲ヤセがまん記

風雲ヤセがまん記

挫折

私が経済部記者をしていた47年ごろ、私は49年に行われる茨城県議会議員選挙のことを念頭においていたように思う。だから48年の夏には、行方郡内の青年約30人で鹿島臨海工業地帯の住友金属工業製鉄所の工場見学を実施したりしたことがあった。
当時、日本の人口構造は、ようやく戦後生まれが半分を超えていたのと、県政にしても国政にしても戦後生まれの若者にとって遠い存在のように思われていたから、若者に政治を取り戻す時期がきていると考えていた。
普通、選挙では地盤、看板、かばんの3要素が欠かせないというものの、私はそんなことはおかまいなく、今飛び出していけば時流が味方をしてくれると思っていた。
そうして、私は私なりに県会議員立候補の準備は進めていった。しかし、そうした矢先に、我が家に予期せぬ出来事が起こった。
私はサンケイ新聞社に入社した翌年の昭和44年に結婚し、家族は妻・美枝子と娘・利枝(当時3歳)の3人だった。昭和48年9月7日--。私は平常どおり会社に出ていた。悪夢のような電話をもらったのは夕刻だった。
「利枝が交通事故に遭ったの。早くきて」というものだった。
利枝は頭蓋骨骨折の状態で、手術が必要だという。手術は5時間にも及んだ。
手術が終わって、私たちは、酸素マスク、包帯などがんじがらめの中ですやすや眠っている利枝を見た。先生は「手術はうまくいった」と説明してくれた。
妻はこのとき、お腹に双子を宿し、臨月だった。私は、「先生もうまくいったと言ってるんだから帰れ」と説得し、妻を母親についていってもらってとにかく自宅に帰した。
ところが午後11時過ぎ、突然心臓の動きを示す針が異常を示した。
私は飛び出すように部屋を出て看護婦、先生を呼んだ。
ドアの外で不吉な予感がした。
しばらくして先生が出てきて、「全力を尽くしたのですが・・・」と言った。
私はすぐに自宅に電話を入れ、応対した妻の母に、「利枝は、たった今亡くなった。これは、美枝子には内緒にしてもらいたい。とにかく、利枝は元気に闘っているということにして、美枝子を明日朝早く産婦人科病院に入院させ、双子の子を産ませることにしたい。今から私は、産婦人科の先生のところに行って事情を話し、入院手続きをとってくるから、美枝子には、双子のことが心配だから産婦人科で診てもらったほうがよいと説得しておいてくれ」と頼んだ。そして翌朝、嫌がる妻を強引に病院に行かせ、入院させることができた。
双子は陣痛促進という措置をとってもらい、無事産まれた。しかし、妻にどうやって利枝の死を伝えるかが問題だった。私は言葉で言うと自分で説明しきれなくなるおそれがあるので、手紙に書いて渡すことにした。
妻は、半狂乱的に泣きじゃくるのだった。そして白い箱の中の骨に変わり果てた利枝を抱いて離さなかった。
この出来事は衝撃的な出来事だった。
まず、何よりも自分自身が必死になって築いてきた・自信・というものが一気に崩れてしまったような気がした。自らの無知と無力を思い切り知らされた。これまでは自分で考え、自分で行動し、自分自信の目的を達成してきたことを自らの力と過信していたが、そんなものは実に小さなことで、私は、私たちには計り知れないところで巨大なエネルギーが存在してるような思いにかられた。
人間の力というものは、自ずと限界があり、自らの力を決して過信してはいけないのだ。
この事故で、私は、郷里へ帰って県会議員の選挙へ立候補するというようなエネルギーは、完全にしぼんでしまった。