自由民主党衆議院議員 茨城県第2区 ぬかが福志郎

ぬかが福志郎が自らの人生を綴った 風雲ヤセがまん記

風雲ヤセがまん記

新聞記者時代

大学を卒業後、私はサンケイ新聞社に入社した。新人研修を経て、静岡支局へ赴任した。そこで3年間、事件記者、県政記者として勉強させてもらった。
その後、私は経済部記者として本部にあがれるようになった。もっとも私は経済部記者で満足してあがったわけではない。本当は政治部記者としてあがっていきたかったが、政治部記者は30歳を超えないといけないというものだから、それなら政治の裏である経済のことを知っておくことも悪いことではないと思い、経済部記者になったのである。今では、経済部記者を経験して新聞の経済面を抵抗なく読めるようになっただけでも、大きなプラスだったと思っている。
その後、政治部に転属したという希望を出しておいたところ、政治部に移れるかもしれないというニュースが伝わってきた。まもなく政治部長から簡単な面接試験のようなものをした。
私が最初に政治部記者として配属された記者クラブは「首相官邸記者クラブ」であった。これは俗称・番記者・といって総理大臣が朝起きてから夜寝るまでの一挙手一投足を注意深く追い、とくに言動は一言半句のがさず、逐一本社の政治部に連絡するのである。総理の一言一言がわが国ばかりでなく世界の政治、経済の動向に大きな影響を与えかねないからである。
そのころは金脈問題で田中首相が退陣した直後で、三木首相が日本の政治の舵取りをしていた。私は三木番記者を務めるかたわら、自民党の田中派担当の先輩記者を補佐する形で、田中派担当記者に命じられた。
私はサンケイ新聞社での10年間、新聞記者生活を通して現実の社会、政治、経済の動きを見ることができた。それは、経済面のドルショック、石油ショック、政治面の保革伯仲、ロッキード事件など、かつて経験したことにないようなことが相次ぎ、まさに激動の十年といってよかった。また、記者生活をした結果、物事の判断を下す場合、習性的に多面的な角度から見たうえで、何が正しいかを見極めようというバランス感覚は植えつけられたような気がする。