自由民主党衆議院議員 茨城県第2区 ぬかが福志郎

ぬかが福志郎が自らの人生を綴った 風雲ヤセがまん記

風雲ヤセがまん記

大学時代

翌年3月、私は悲願の早稲田大学政治経済学部に合格した。高校時代から文学と政治に関心を持っていた私は、迷わず雄弁会に入会届を出した。政治に関心を持ち政治を実践していくためには、理論の武装もさることながら社会的実践の有力な武器のひとつとして演説が不可欠のものであると考えたからである。とくに私は田舎育ちで人前で話をする発表能力がゼロに近かったので、これを克服するためにも、なんとしても雄弁会に入る必要があったのである。
当時の7月17日水曜日の日記を読み返してみると、こう書いてある。
『政治――ぼくは、それをやってみたい、それに痛切にあこがれることがある。大学を出て新聞社に就職し、資金カンパの基礎を作り、6~7年で県議へ出馬、順調に二期くらいつとめて、代議士に、そして大臣......』
私は次第に雄弁会の活動にのめりこんでいくようになる。
当時雄弁会は、いわゆるマルクス・レーニン主義を信奉する教条主義的な左派と、革命的な非合法手段で現状を打破する考え方を拒否し、現状を漸進的に改良、改革していくことによって理想の社会を作ろうという現実主義的な右派の真っ二つに分かれていた。私が大学2年の前期、左右激突して会の運営が図れなくなり、中道暫定政権が作られた。その際に私は同会の副幹事長を務めた。
同じ大学2年の暮れの「大学祭」には、私が早稲田祭対策委員長をやり、特別参加行事として大隈小講堂で「早稲田学生模擬国会」を開催した。これは雄弁会会員で保守、革新の政党を作り、それぞれの党綱領、政策を掲げて与野党の論戦を展開したものである。
私は、昭和40年6月2日、雄弁会同僚で水戸市出身の坂本君と先輩の飯島さんの3人で、移民船に乗船しブラジル・サントスに向かった。
これは、移民の実態を含む産業事情調査もさることながら、少なくとも私にとって大事なことは、世界を見ることと、まったく知らないところで自分が明日食べるコメのことを心配しなければならない場面に追いやられたら、いったい今大学で学んでいることや、あるいは学生の間で議論していることが果たしてどんな意味を持つのであろうか、という疑問に確かな答えを出したかったからである。
出発に先立っていろいろ検討した結果、無資源国の日本が今後生き延びていくためには、資源の宝庫といわれる南米諸国との一層の緊密な関係が必要であるとの認識に立って白刃の矢を立てたのである。
また、貧乏学生の私たちがどうやって旅費を工面していくか話し合った。そのとき、当時海外移住事業団で「第2次南米視察旅行団」を組織し移住者とともにブラジルへ行く計画があることを知り、私たちもそれに便乗するかたちで移民船「桜丸」に乗ったのである。私たちは1人5万円前後のお金しか持たず、太平洋に飛び出した。
私はこの南北米縦断旅行で、多くの人と会い、さまざまなことを経験した。その結果、私は、自らが生きていくためには自分1人だけでは生きていけないことを身をもって体験したし、むしろ、多くの人に世話になって、あるいはかかわりを持って初めて生きていけることを体感した。
しかも、そこに流れるのは、皮膚の色が違おうとも、言語が違おうとも「人間愛」に基づく信頼であり、誠意であることに気がついた。<最初にイズム(主義)ありき、これではやっぱりまちがいではないのだろうか。最初に人間ありき、こうでなければならないはずだ......>と私は考えていた。